御穂須須美命について

出雲国風土記に記される「御穂須須美命」、神話好きの方には時々話題になりますよね。

得体の知れない神として、取り上げられます。

風土記には出てくるのに記紀では現れないとか、風土記にあるように高志の国の沼河比売との間の子を指すとか、これは建御名方のことを指しているとか…。

謎が多いので、この際、新しい話作って、納得してしまおうと思うんです。勝手な話なので、いつか消すかも知れない代物です。

 

美保関に美保神社という立派な神社があります。よく知られた神社で、出雲大社と対を為すともいわれています。美保神社の御祭神は「事代之主」と「美穂津姫」です。

 

古事記では「事代主」は、大国主命の子で、国譲り神話では大国主に国を譲ることの助言をしたとされています。「美穂津姫」は大国主の妻の一人とされています。

しかしながら、出雲国風土記での美保の件で現れるのは大国主沼河比売の子の御穂須須美命(沼河比売は高志の国、今の糸魚川付近の出であるとされています)。

こんな大事そうな神様「御穂須須美」、美保神社では祀られていない?…ということもないんです。境外末社に「地主社」という小さな社があるのですが、ここに御穂須須美命は祀られています。こんな小さな所に?っていいたくなるくらいの社です。なんでもストーンサークルの上にあるそうで、地域では一番古い社とされているようです。

 

…ここから勝手な話させてもらいます。

そもそも古代神話に出ている神様は、個人を表現しているのみではなく、場合によっては、族や集団を現しているのではないかと仮定します。

 

「御穂須須美」は、美保関周辺に住んでいた先住の族なのではないかということです。小規模ではあるようですが、遺跡もあります。

「御穂須須美」族は、古くから美保関に住んでいた。この地域では、地形的に稲作は困難ではないかと思われ狩猟中心であったのではないかと思われます。きっと、操船、航海術は優れていたのではないだろうか。生活の中心は今の地主社辺り、美保関の港の東側になります。

この地に「須佐之男」から始まり「大国主」につながる大勢力である「出雲」族がせめて来たのではないかと…。

美保関は、出雲(今でいう雲南辺り?)の「大国主」族に支配されます。

出雲族は繁栄します。海運を駆使して高志の国までその力を広げます。高志の国と出雲国翡翠等の貿易でかなり深い繋がりを持っていたようです。もしかしたら、すでに高志までの航海術を身につけていた「御穂須須美」族を手にしたことが、発展した理由かも知れません。

出雲−美保−加賀−珠洲糸魚川…このラインで交易があったことは容易に想像つきますし、みんな言っています。美保は出雲と貿易の関係で対等だったのではないでしょうか。珠洲にある須須神社には御穂須須美命が祀られています。

大国主」と「沼河比売」との繋がりは、個人の婚姻ではなくて出雲と高志の関係を表したもの、当時の美保関と珠洲は、その間で何かの役割を果たしていたものと思われます。その何かが「スス(スズ)」の音につながりそうなのですが…。(よく調べていないのですけれど、交易があったであろうにも関わらず美保関と珠洲には、瑪瑙や勾玉の記録はないのではないかと思います。)

このあたりまでが出雲国風土記の記録するところなのではないかな、と思うのです。

 

この後、出雲政権は、ヤマト中央政権に征服されます。このとき、まだ「御穂須須美」族は残っていたのではないかと思うのです。

中央政権に従った出雲族は、中央政権の意図に従い「御穂須須美」族を攻めます。

古事記では「大国主」から言付けされた「事代主」(美保で釣りをしていた)が国譲りを認めちゃった形になっています。これが何を現しているか。中央政権に下った「出雲」族が「御穂須須美」族を攻めたことの象徴ではないだろうか。

古事記は中央政権の歴史書だから、自信に有利な書き方をするはず。中央政権が出雲に攻め込んだとか、「御穂須須美」族を支配したとか、そんな表現をしなかった。日本人敵に、あくまでも滅亡させた相手(敵)を褒め称える、または平和的な表現にして、たたりを避けたのではないかと。

 

御穂須須美族の「地主社」。

現在の美保関で、これに代わる大きな社「美保神社」。

美保神社の参道と鳥居の線を延ばした先に「地主社」はあります。見方を変えると、美保神社は「御穂須須美」族の中心地の象徴である地主社を押さえつけているようにも見えます。押さえつけているのは中央に下った「事代主」。事代主の義母でもあり中央政権から出雲に来たとされる「美穂津姫」は、おそらく「御穂須須美」族と「事代主」を見張っている…。

さらに「地主社」の裏は崖になっていてその上にはやはり「美穂津姫」を祀る天王社、同じ山には「大国主」を祀った客人社(この山は、美穂津姫が稲穂を持って降り立った場所とされています。これも支配の象徴に思えます。)。これらも中央政権(もしくは従って)として「御穂須須美」族を見張っている象徴と思えるのです。

ちなみにヤマトから差し向かわされた「建雷命」と戦ったとされる「建御名方」は美保神社の裏山の奥の方に、「客社」として、ひっそり鎮座しています。これも、「建御名方」が出てこないように、美保神社が押さえつけているように見えるのです。

(もう一つ言うと、現在「佛国寺」がある場所に、「御穂須須美」族に関わる何かがあったのではないかと推測しちゃうのです)

 

なーんか出雲族によくないようなことを書いたような気がするのですが、今のこの国を造るための大事な出来事(ホントかどうか知りませんが)。

 

ほいじゃ、また。